My History 平井竜一の歩み
長い人生には、その後に大きな影響を与える重要な出来事がいくつか起こります。その時、私が何を思い、今にどうつながっているのか、人生の節目となったストーリー。そんな経験を通じて、夢をつかむために私が大切にしている10ヶ条があります。何かの参考になれば幸いです。
なぜ、市長を志したのか?
学生時代に関わった米軍住宅建設問題が
政治を志した原点
早稲田大学で学んだ
社会システム論が
全ての政策の基礎に
激務に耐える心と体の源は?
中学高校時代は陸上競技に没頭。心身を鍛えた青春時代
中学から高校まで陸上競技に明け暮れました。夏合宿では400mダッシュを繰り返し、冬は駅伝の長距離走。苦しい練習に耐えたことで、市長の激務にあってどんな苦境にも屈しない心と体が備わりました。今も市内駅伝に出場しています。
探検部で登山やインド放浪。ありのまま受け入れる自然体に
大学時代に所属した探検部では、登山やロッククライミング、川下りや洞窟探索をし、夏休みにはインドや中国を一人で放浪しました。自然の雄大さや厳しさ、人間の小ささを知り、ありのままを受け入れ、捉われない心が備わりました。
なぜ、民間に就職したのか?
バブル経済崩壊。企業経営の厳しさ学んだサラリーマン時代
商業施設などの企画開発を手掛けるベンチャー企業に就職し、社長秘書を8年半務めました。民間からまちづくりに関わりつつ、経営を学べると考えたからです。トップが組織を動かす神髄を見た経験は、市長の仕事に活きました。
阪神淡路大震災に被災し、地域のつながりの大切さを痛感
1995年1月17日、兵庫県西宮市のマンションで阪神淡路大震災に遭遇しました。寝ていた横に家具が倒れてあわや下敷きに。
被災生活で一番苦労したのは水の確保でした。日頃の備えと地域のつながりの大切さを痛感しました。
手探りの初選挙でトップ当選
久木中学時代、
生徒会長選挙に落選した苦い経験が糧に
実は、久木中学2年の時に生徒会長選挙に臨みましたが落選。大きな挫折を味わうとともに、人の心に訴えて共感を得ることの難しさを身に染みて感じました。今思えば、この時の苦い経験が、政治家としての大きな糧となっています。
毎朝駅頭で政策ビラを配り、若さと情熱で挑んでトップ当選
1997年9月、半年後の市議選に出馬を決意し、脱サラ。100万円を資金に手探りで活動を始めました。選挙2ヵ月前から毎朝駅頭で『地球市民』と題した市政レポートを配り続けトップ当選!議会では近藤大輔(現県議)と会派を組みました。
市長選出馬は人生の大勝負
後悔したくない!
反対を押し切って、市長選立候補を決断
米軍住宅追加建設反対の裁判を抱える難しい市長選挙。支援者からは40才ではまだ早いと言われましたが「今やらねば後悔する!」と決意。
開票の夜、「勝つか?負けるか?」風呂で身を清めて待ちました。あの時の決断は間違ってなかった。
池子裁判で最高裁上告予算否決。議場で頭が真っ白になった
市長就任2カ月後、池子米軍住宅追加建設反対の裁判は高裁で敗訴。最高裁上告予算が市長として最初の議案となりました。議会は一票差で否決。突きつけられた厳しい現実に足が震え頭が真っ白に。でも、ここからやるしかないと決意したのを鮮明に覚えています。
何度となく訪れた試練
突然の聖ヨゼフ病院撤退で、窮地に立たされる
前市長から引き継いだ聖ヨゼフ病院計画は225床の開設許可を得たものの様々な異論が出て説明会では毎回厳しいやり取りに。そのため聖ヨゼフ病院は2009年に突如撤退を表明し、3度目の誘致も失敗。総合病院の実現は絶望的になりました。
池子40ha共同使用による公園実現へ
選挙で民意を問う
目的達成に突き進む強い意志
池子反対派の元女性議員という異例の
副市長人事を強行
池子問題の国との交渉切り札として、私は副市長に池子反対派元市議の小田鈴子氏を一部議員の反対を押し切って強行提案。小田副市長は池子問題や被災地支援などに尽力し、任期最終日に池子の森自然公園の開園を見届け退任しました。
ファミリービーチ復活をかけ日本一厳しい規制条例を決断
逗子海岸の治安が最悪になった2013年夏。日本一厳しい条例の制定を決意。砂浜での飲酒禁止は最後まで悩みましたが、徹底しなければファミリービーチ復活はないと腹を括りました。メディアは批判的でしたが、決断は功を奏しました。
くじけず あせらず あきらめず
今度こそは!
病院再公募へ。4度目の誘致に踏み出す
2016年12月に県が175床募集することになり病院誘致再開を即決。「急な公募に応募病院があるか?」わずかな可能性に賭け、運よく2法人の中から葵会に決まりました。あせらず、あきらめずに挑戦し続けることの大切さを再認識しました。
まさかの財政悪化。財政構造改革へ覚悟
大ナタを振るう
2017年6月、決算は黒字だったものの予想以上に繰越金が減り、次年度の予算編成に7億円足りない事態に。
緊急財政対策本部を立ち上げ人件費カットやあらゆる事業の見直しを断行。建て直す目処は立ち、財政調整基金は対策2年目で12億円まで復活させることができました。
人生は挑戦の連続
こんなもんじゃないぞ!西東京市
市長選挑戦を決意
2020年8月に西東京市議3
名から2021年2月の市長選挙出馬を要請されました。最初は断ったものの市政刷新を願う議員と市民の熱意に応え挑戦を決意。出馬会見から2カ月半の活動で34,299票対32,785票の1514票差で負けましたが、たくさんの市民に支えられ全力で戦い抜いた選挙でした。
公民連携アドバイザーとして社会貢献する新たな挑戦
2021年3月、逗子に戻って再スタートを切りました。これまでの市長経験を活かし、Social Design Consultantとして、公民連携の支援を通じて持続可能な社会の実現に貢献していきたいと思います。
人生、何が起きるか分かりません。これからも新しい挑戦が続きます。皆様の応援をよろしくお願い致します。